茨城県信用保証協会

元気企業

バックナンバー

マルキン米菓 有限会社 ・ 株式会社 都炉美煎本舗 (前篇)

本物にこだわり地域の人々に愛されつづける米菓製造・販売店 ~兄弟経営者が支える職人の味~

      

 

  米を原料にしたお菓子の歴史は古く、平安時代から食されていたと言われています。米菓の生産量を都道府県別に見れば、量産化の進んだ大手メーカーが本拠地を置いている新潟県が全体の60%を占めており圧倒的なシェアを占めていますが、茨城県も上位にランクインしており、さまざまな煎餅店がそれぞれ個性ある商品をつくり続けています。

 

 今回から水戸近郊にお住まいの方ならきっと一度は食べたことのある「とろ火焼」を生産しているマルキン米菓㈲と、その販売部門としてスタートした㈱都炉美煎本舗を、前篇・後編の2回に分けてご紹介します。
両社は、戦後間もない頃、大洗町で開業した小さな手焼き煎餅店がルーツとなっており、現在はマルキン米菓㈲を兄である金子昌弘社長が、㈱都炉美煎本舗を弟の金子靖社長が務めています。それぞれ独自の事業形態で成長を続けている2社ですが、地域の消費者に愛され続けている背景には、2人の経営者に共通する商品づくりに対する思いがありました。

祖父がはじめた手焼き煎餅店がルーツ

 

 

 冒頭でご紹介したとおりマルキン米菓㈲と㈱都炉美煎本舗の歴史は、昭和20年代に現社長の祖父が大洗町で煎餅店を開業したことにさかのぼります。当時は簡易な設備を使用し、手作業で一枚一枚煎餅を焼き上げ、商品の多くは地元近隣のお客に販売していました。


 その後、昭和30年代に金子時男氏(二人の社長の父で現会長)が事業に携わるようになり、昭和38年にマルキン米菓有限会社として法人を立ち上げます。このころから少しずつ機械化を進め、製造卸売専門の企業として量産可能な体制をつくり上げ、昭和50年代には問屋を通しスーパーとの取引も増えてきました。なお、同社の看板商品である「とろ火焼」の原形はこのころすでに商品として確立されていたそうです。
 スーパーへの商品供給が増えるに従い、同社の売上規模も拡大しましたが、一方で小売業界の中でスーパーの存在感が増すにつれ、メーカー同士の価格競争が激しくなり次第に体力の消耗戦が繰り広げられるようになりました。こうした状況の中、危機感を覚えた同社は、価格競争を回避するため販売戦略を見直す必要性を感じるようになったそうです。

 

 

品質と価格のバランスをとるために直営店出店へ

 

 

 そこで、同社が選んだ戦略が直営店の出店でした。昭和64年、同社は水戸市栗崎町の1号店を皮切りに、看板商品であった「とろ火焼」をもじった「都炉美煎本舗(とろびせんほんぽ)」という店舗名を掲げ、立て続けに5店舗を出店させました。

 

 

 直営店であれば、小売側の意向に左右されることなく自社で決めた価格で商品を販売することができます。日頃一般の消費者が口にする商品を製造している企業としては、求めやすい価格で商品を提供するための努力も大切ですが、価格が最優先にされるような競争条件の中では、食品メーカーとして良質で安全な商品を生産し続けることは困難です。直営店の出店は、同社にとって品質と価格のバランスをとるために不可欠な戦略であったと言うことができるかもしれません。

 

 しかし、実はこの戦略は同社にとっては大きな賭けでした。なぜなら、商品を卸している問屋やスーパーの立場からすれば、同メーカーの商品を販売する競合店が増えることを意味しており、それまで良好であった関係の悪化や、取引の打ち切りを通告される恐れがあったからです。多少無理をしてでも一気に多店舗展開に踏み切ったのも、「既存の販売ルートが閉ざされても生き残れる道を用意しておかなければならない」と考えての経営判断でした。
 幸い、想定していたほどの影響はなく従来の納入先との取引も継続されたそうですが、それには「とろ火焼」が長年の間に築き上げていた〝商品力〟によるものと言えそうです。

 

 

 その後、平成9年に金子時男氏が社長から会長へ退くと同時に組織を見直し、製造を専門に行うマルキン米菓㈲と、販売を行う㈱都炉美煎本舗に事業を分割しました。そして、金子昌弘社長と金子靖社長のご兄弟がそれぞれの会社の代表者に就任されました。

 

 -4月号掲載の(後編)「それぞれが看板商品を生み出す新たなステージへ」に続く―

 

 

 

 

▲Top